太陽と青空の下で

ご主人様の空を自由に羽搏くわたし(従者)─ご主人様への気持ちや従者としての日常を綴ります

小さな昔話(徒然)

今日はご主人様のいない小さなわたしの話を。



小さな頃のわたしは、<いじられっ子>でした。
近所の同年代の子どもたちによく泣かされていました。

いじめというわけではなく、どんなに泣かされてそのまま家に帰っても、翌日にはまたけろっと同じ子どもたちと遊ぶ..という、兄弟げんかに近い感覚でした。

田畑に囲まれた、近郊ののんびりとした田舎町で、大人たちはみな顔見知りという環境でした。


小学校ではおとなしいほうでした。

特定のグループに属さず、ひとりでいることも楽しいタイプ。
でも女子からはあだ名で呼ばれ、班分けのときにはちゃっかりどこかに入れてもらっているような、浮いているようでそれなりに場に馴染んでいる子どもでした。


わたしがいた地元の市立小学校では2年に一度クラス替えがあって、五年生のときに担任になった女教師には、何故か執拗に「嫌なこと」をされました。

毎日ではないのですが、「されること」は決まって、終わりの会(ホームルーム)で担任教師にしか知り得ないわたしのあれやこれやを芝居掛かった風におどけて発表することでした。

クラスの全生徒に対して毎日の課題になっていた「日記」の内容に触れ
「そんなつまらないことをダラダラ書いても仕方がないと思いまーす」
と言ったり、身体測定があったときにはわたしの数値だけクラスで公表したり。

そんなことが何日かに一度のペースで続いていたのが、数ヶ月経った頃、ぱたりと一切なくなりました。
今にして思えば、うちの親との保護者面談の話の内容も「クラス発表」されていたので、誰かの保護者から問い合わせがあったのではないかと思うのですが。
誰かが親に
「みんなにバラされちゃうから、お母さん、あんまり変なこと言わないでね」
みたいに言ったことから、問い合わせが来た..とかね。あくまで推測ながら。


わたしの地域だけかしら?…その頃は学童って親の所有物として見なされていて、各々が尊重されることはなかったような気がします。
公立小でも、親が個別に学校のやり方にケチをつけるようなこともなかったような。

体罰も普通にありました。
それどころか、体罰をゲームのようになされることもありました。年末のお笑い番組のように。
自ら巨大なハリセンをわざわざ作ってきて
「よーし!ケツ出せー♪」
と言う教師もいました。


そんな時代にあって、その担任の女教師の「嫌がらせ」も
「嫌だけど、また大人が理不尽なことを押し付けているだけ」
みたいな感覚で捉えていました。
そういう罰を受けるべき理由も思い当たりませんでしたから。

それから小学校を卒業するまで、目立たずやり過ごし…中学生になってから
「ああ、あれは<いじめ>だったんだ」
と考えるようになりました(遅

鈍いかもしれませんが、よもや子どもの自分に大人から明らかな悪意を向けられているとは感じようもない、そんなのんびりした時代でもありました。



何でこんな話を思い出したかというと、お盆のせい(笑

帰省した折に、当時の同級生とばったり会って。
数年前にお誘いが来たもののお断りした同窓会の話になったのでした。

ちなみにその女性教師は定年まで教師として勤め上げ、校長にまで登り詰めたという話です(怖



しかし…そのことを踏まえて考えると
「いじめの定義」
がわからなくなります。

ニュースなどでよく耳にする、「悪意はない」と言われるプロレスごっこは相手がどんなに嫌でも<いじめ>じゃないのか?
わたしに「いじめられている」という認識がなければ、悪意のある言動も<いじめ>じゃないのか?
即ち、悪意と被害者感情が両方揃わなければ<いじめ>じゃないのか?
…とか、ね。

 

 

 

※なんとなく書きたくなったものの、このブログの趣旨から外れた記事になりますので、近々引っ込める予定でいます。
ご了承下さいませ。